鳴海仙吉 (1956年) (新潮文庫)本pdfダウンロード
鳴海仙吉 (1956年) (新潮文庫)
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によって 伊藤 整
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鳴海仙吉とは、戦後の混乱から地獄的様相を呈している地上生活に戦慄しながら、大学へ、街へ、恋人のもとへ、酒場へと出かけてゆく現代日本の弱気なオデュッセウスである。この作品は普通のロマンのように一筋の物語の糸でつづられてはいず、詩、小説、評論、戯曲といった文学上の各種ジャンルをとりいれて、”交響的効果”をみせた長篇小説であり、酒脱な文明批評的内容をもつ。
以下は、鳴海仙吉 (1956年) (新潮文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
人が(小説家が)ものを書く(小説を書く)というのはどういう時に可能なのだろうか?「書きたいものがある事」―それが前提であることは当たり前だが、さてそれを自分はどういう立場で書くのか?どの立場であれば書くことが可能であるのか?即ち書きたいものとそれを表現する自分の立場、対象への向き合い方―というものが決まっていなければ「書く事」は出来ない。具体的に言えば「文体」が決まらないのだ。そうした事に悩まずに大著をものし続ける作家は「大家」という事になる。伊藤整はそういった意味での「大家」では全く無かったし、ましてや私小説家でも無頼派でも、ましてやプロレタリア文学者でも無く、美を追い求めるでもなく、終生自分のスタイル(文体)というものに悩んでいた作家ではないかと思う。評論、エッセイや自伝的なものを書くと非常に明晰・風通しの良い文章を書くのに反して、小説となると陰々滅滅、迷路に嵌まり込んだ様なものや、妙に作為が透けて見える様なものを書いたのはそうした事が原因だったのだと思う。本書は鳴海仙吉という人物を主人公に、ある時は「家庭人」、ある時は「大学教授」として、またある時は「文芸評論家」としてーーのように、こういう立場の人間であればこう話し、こう書くであろうーと書く。描く方法(対象物との関わり方、即ち文体)に悩んだ伊藤整が、一発逆転の方法(ズルイ方法ーと言っても良いと思う)で生まれたのがこの「鳴海仙吉」である。伊藤整派(?)であった瀬沼茂樹や奥野健男などはやたらとこれを先端的やら実験的やらと誉めそやすが、それほど大げさなものでは無く要は「パスティーシュな手法」という事だと思う。こうして一旦文体(対象への向き合い方)を確定してからの伊藤整が書くものは高踏的だったり衒学的だったり、退行的だったり、或いは抒情詩人としての過去を反芻してみたりーと非常にウマい。
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